|
ドイツからオーストリーに向かう車中にて(2000.3)
さわやかな明るい緑のじゅうたんの広がる野原と、 なだらかな山々のつらなる景色。 時折現れる池の水色に太陽がきらめくのは、 この辺を旅する人の心を慰めてくれる。 ここは南ドイツのバイエルン地方、 私が以前住んでいたミュンヘンのある所。 中央駅から電車で15分も走れば、すぐにさっきのような景色を、車窓より見ることができる。 今は友人をたずねて、オーストリアのリンツに向かう途中である。 まだコートを着ていないと寒かった。 三月末にドイツに来て、今、2週間ほどが経ち、 木々は黄緑色の芽を点描のように枝にたたえ、 小さな花々が遠慮がちに牧草の端で咲き、 日本よりも遅い春の来たことを知らせてくれている。 ミュンヘン郊外のローゼンハイムとプリーンという街で、 すでに、バッハの「マタイ受難曲」のコンサートを終えた。 2年前に共演したコーラスとの再演である。 いずれも教会でのものだった。 ここでの音楽の存在は、音楽性だけでなく、 教会において、すなわち人々が日々信仰という共通の目的をもって集う場所でなされることによって、人間に根源的にそなえられた心のあり様としての「信仰」が、 最大限に現実化されたものとなる。 我々は誰のために演奏するのでもなく、 演奏者はそこに居る人々の心にある神への信仰を、 バッハの音楽にたくした一つの様式をそこに現実化することによってさらに導き出し、人々に新たに認識させる。 ここでは演奏者は、一つの媒体なのだろう。 それは人々の求める信仰のあるべき姿を、音楽によって、 そして、人々の要求してくるエネルギーを受け止めることによって、 音にしてゆくという役割をもっている。 このような体験は、教会でのコンサートがたいてい拍手もなく始まり、 曲が終った後には沈黙の中、鐘が鳴り響き、 静かに終ってゆくということにも由来するのかもしれない。 それは音楽がまさに、神のために存在すると言っても過言ではないと思う瞬間である。 |