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2010
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私は、「水草のように生きられればいい」
といった事がある。
清流に葉を揺らされながら緑色をきらめかせて、でも流されないで根を張る水草。
欲が無いとよく言われた。自分でも良く分からないが、あまり他人との競争には向いていないような気はする。
妊婦的な人だとも言われた事があった。
最近自分の内面にまた問いかける日々が戻ってきた。
私には私のペースがある。
その時間の過ごせる時には、私は平静でいられるような気がする。
そして、形の無い不確かだった自分の内面がしっかりとしたものに変わると、
外へのエネルギーが湧き上がる。
今、そんな充実感を得ているような気がする。
来年、春の訪れる日、
久しぶりに歌曲のリサイタルを開く事にした。
小さな空間だが、私の大切な演奏会になるだろう。
(2010.9)
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絵の具
私は「絵の具」。
今日歌っていて、ふっとそんな思いにかられた。
ラファエロやフェルメール、名画と呼ばれる数々の絵画になぞらえるように、
何百年も時を越えて残っている音楽作品を、人々に伝える為の絵の具。
そのタッチや色合い、それを極めなければその作品の命に関わる。
大学3年生の頃、友人に多く美術学部の人たちがいた。
私は私の表現手段が声であり、音楽という事でジレンマを感じていた。
私達のやっていることって芸術といえる事なのか、と。
すでに人の作った作品を単に再現しているだけで、何かを作り出しているわけでもない。
芸術家を気取っているが、いったい存在価値は何処にあるのか、などと考えていたりした。
今はそこまで演奏家への疑問は持たなくはなったが、
「絵の具」という発想は今までの私に残っていたジレンマを少し和らげてくれたような気がする。
すでにどこかで聞いたり見たりしていた表現かもしれないが、
私の中からふっと湧いたこの歌に対する感じ方は、
今の私にとてもしっくり来るものだった。
額にあたるものもいろいろとあるかと思うが、
「絵の具」に徹する事を目指して行きたい。(2010.5)
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くもの糸
ある夜、皆が眠りにつき静まりかえった我が家で一人眠れずにいると、ふっ、と明かりに照らされている空中に浮かぶ小さな蜘蛛を見つけた。
音の無い空間に小さいながら異様な存在感を感じながらも「夜の蜘蛛は…縁起が良くないし…」という小さな頃から聞かされていた風習をもとに、私はその蜘蛛を何かで叩いてしまおうかと思っていた。
しかし、蜘蛛の上にすうっと伸びる細い糸が明かりに照らされているのを見て、
「この蜘蛛、すごいな」と瞬間的に思って、その蜘蛛を私はしばらく眺める事になった。
蜘蛛は部屋の天井から垂直にぶら下がっていた。
自らの体から出した糸にぶら下がっていた。
音も無い深夜の部屋で、空気も停まっていた。
だから、蜘蛛は安心して自分の身を糸に委ねていた。
きっと私の存在に気づいていなかったのだろう。
私の目線の少し上で、手足をゆっくりと動かして時おり2センチくらいすうっと下がったりしている。
あまりに糸がまっすぐで、そこに蜘蛛の体が地球の中心にまっすぐ引っ張られているので、息を吹きかけて糸を揺らしてみたくなった。
糸がゆれた。
蜘蛛は一目散に糸をたぐり寄せ上へ上へと上って行く。
息の勢いが強すぎればきっと糸が切れて床に落下しただろうが、幸い糸は切れることなく、蜘蛛は天井までたどり着いた。
体のおなかの所には急いでたぐり寄せた糸の塊が見えたような気がした。
蜘蛛が天井に着くと何故か私も安心し、そのまま眠りに付いた。
あの蜘蛛の姿がまぶたの奥に焼き付けられている。
静かな夜のくもの糸。
あそこに蜘蛛以外の者がしがみついて切れないなんて本当は無いはずだ。
でも、何かの力で強い糸に変わるのだろうか。
信じる力だろうか。(2010.4)
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しばらくぶりに書きます。
どうも時間の流れと言うものにいろいろな波があり、新年からしばらくは何かしているということでなくても流れが速く過ぎ去っているような気がします。
書くとなるといろいろと考えるようで、とても楽しくなります。
普段いったいどんな頭の使い方をしているのかと思いますが、母親脳というものが子育て中には機能するらしく、本能によって私の機能も知らないところでコントロールされているのかもしれません。
そんな事で、考えているうちに、いろんな事を思い出しました。
ドイツでのレッスン、そう言えば先生はレッスンの約束をする時に、「Arbeiten wir zusammen. 一緒に勉強しましょう」という表現をされていたな、と。
高齢の偉い先生でしたが敬語を貫き、生徒に対して敬意を常に持っておられました。
一緒に勉強という考え方は慣用句的な言い回しになっているのかもしれませんが、レッスンの本質が現されているのではないかと思います。
私も個人レッスン、シュナイト・バッハなどでの合唱の指導、今年度から始まった大学でのレッスンと、指導というものが自分の音楽との関わりの中で大切なものとなってきているのだと実感させられる中、演奏家として切磋琢磨していることが、一緒に勉強するというスタンスにつながり、指導者として欠かせない要素なのではないかと実感するようになりました。
来年度からはフェリス女学院でのドイツ語歌唱法の授業を受け持つ事にもなり、一緒に勉強をさせていただく機会がまた増えそうです。
これからも指導を通していろいろな発見がありそうで楽しみです!
(2010.2)
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